無限に広がる音楽表現

ジルジャンは400年もの間、無限のサウンドを持つ楽器を作ることで、無限の音楽表現に一意専心してきました。 奏者の想像力を刺激するサウンドと、奏者の演奏の可能性を引き出すツールを作りたいという思いから、大陸、ジャンル、世紀を超えて、音楽の最前線に立ち続けてきました。 オスマン帝国のスルタンの宮殿でアベディス・ジルジャンが初めて金床を叩いたときから、現在15代目のジルジャン・ファミリーに至るまで、ジルジャンは最高で最も適切な楽器を作ることを追求し続けています。工場のフロアから、グローバルなアーティスト・ファミリーまで、奏者が音楽の旅路のどこにいても、ジルジャンは奏者を刺激し、奏者のサウンドを次のレベルへと導く手助けができればと願っています...そしてその先へ。

ゴールドスタンダード

シンバルの製造に関して、ジルジャンは「ゴールドスタンダード」と呼ばれています。1618年、錬金術師のアベディス・ジルジャンは金を作ろうとしていたのですから、皮肉なものです。しかし、彼は偶然にも地球上で最も優れたシンバルの材料を作り上げたのです。現在もジルジャンでは、すべてのキャストシンバルにこの秘密の合金を使用しています。アベディスの実験と発見の精神は、ジルジャンの工場で今も生き続けています。この精神は、できる限り最高品質の楽器を作るための日々の原動力となっています。

ZILDJIANは文字通り、"シンバルメーカー" を意味します。

1623年、スルタンはアベディスに、文字通り「シンバルの鍛冶屋」を意味する「Zildjian」の姓を与えました。宮殿を出て自分の鋳物工場を始めた後、彼は何年もかけてシンバルの製造技術を完成させました。銅、錫、銀を組み合わせる彼の製法は、今でも家族の秘密として厳重に守られており、そこから生み出される鋳物は、並外れた音楽性と音色を持っています。熟練した職人は、古くから伝わるシンバル作りの技と現代の技術、そして最先端のイノベーションを融合させ、アベディスの合金をあらゆるジャンルの音楽に対応するあらゆる種類の優れたサウンドのシンバルに変えています。

最前線で

音楽が大きく変化するたびに、ジルジャンは多様なアーティストと協力し、時代の要求に応え、未来のトレンドを確立するために必要なサウンドを作り出してきました。スルタンの有名なジャニサリーバンドから、モーツァルトのクラシックサウンド、ジャズ、スイング、ロック、ポップ、パンク、ヒップホップ、EDMまで、私たちはドラマーが頭の中で聞いている音のリクエストに耳を傾け、それに応えてきました。ライド、クラッシュ、エフェクトは、アーティストが求めているものを表現するためにアベディス・ジルジャン3世が開発した用語で、文字通りシンバルの語彙を発明したのです。今日の一流アーティストとの深いパートナーシップと継続的なコラボレーションは、録音された音楽とライブ音楽の新しいトレンドを常に先取りし、もしかしたらあなた自身の音楽革命の始まりになるかもしれません。

「彼らは悪魔に踊らされている」

それは彼らが素晴らしいライドシンバルについて言っていたことです。そして、"素晴らしい "ものだけが選ばれるのです。ジルジャンの工場では、常に音と美のクオリティを追求するために、あらゆることが行われてきました。ジルジャンの合金シンバルは、最低でも15人のスタッフで作られています。KeropeやK Constantinopleシンバルなど、ヴィンテージサウンドを再現する特定のシリーズは、14段階の工程を経て、50~60枚の小ロットで丁寧に手作りされます。シンバルのテストは、100年近い経験を持つ専門チームが、一定の音域に収まるようにシンバルを叩き、同時に、ドラマーの好みに合わせて個性的なシンバルを作っています。シンバルが "Zildjian "とみなされるのは、"テスト "を通過したときです。そのとき初めてロゴがプリントされる......つまり、「Zildjianのキスがもらえる」のです。

過去と未来

1623年にトルコで創業して以来、ジルジャンの工場は今日も、シンバル、ドラムスティック、マレット、その他の道具を、奏者がこれまでに演奏した中で最も高品質で安定したものにするために努力しています。ジルジャンは、Vic Firth、Balter Malletsを含む象徴的なブランドのファミリーを増やしており、デザインと性能の境界を押し広げ続けながら、その遺産の保護者であることを光栄に思っています。地下室、コンサートステージ、スタジオ、マーチングフィールドでの演奏に関わらず、ジルジャンは奏者の音楽表現と、奏者が自分の声を見つけて共有する特別な瞬間の一部になりたいと考えています。ジルジャンは400年もの間、この音の旅を続けてきましたが、私たちはまだウォーミングアップの段階です。私たちは未来に胸を膨らませ、皆さんと一緒に "Ride"することを願っています。

ジルジャンの歴史


イェニチェリ軍楽隊

1618

イスタンブールに居を構えるアルメニア人の錬金術師、アベディスⅠ世は、合金処理法において独自の製法を発明し、その製法を生かすことにより透明感のある、そして力強い音を産み出すまさに芸術的シンバルの製作に成功。オスマン・トルコ皇帝に従う、その名も高いイェニチェリ軍楽隊がアベディスのシンバルを採用し、日常的な祈りから、宗教上の祝祭、皇室の結婚式、そしてオスマンの軍隊の召集にまで利用した。


オスマン・トルコ皇帝オスマン2世(1616-1622)

1622

皇帝はアベディスに感謝の意を表し、彼にシンバル職人の称号として「ジルジャン」を授けた。‘Zildjian’はアルメニア語で「シンバル職人」を意味する。‘Zil’はトルコ語で「シンバル」、‘dj'は「メーカー」、そして‘ian'は「~の息子」を意味するアルメニア語の接尾辞である。


サマティヤのジルジャン工場

1623

1623年、宮仕えから独立することを皇帝に許されたアベディスは、コンスタンティノープルの郊外で、シンバル製造の工房を始めた。


シンバルを演奏するプレイヤー

1651

アベディスは、1651年に彼の跡を継いだ長男アーカムに、シンバル製造の秘伝を継承した。


ニコラウス・アダム・シュトルンク

1680

その後クラシックの作曲家が楽曲にシンバルを取り入れるようになる。その先駆けとして知られるのが、ドイツの作曲家、ニコラウス・アダム・シュトルンクのオペラ「エステル」である。


ハイドンとモーツァルト

1700

18世紀には、ヨーロッパの軍隊でシンバルが愛用されるようになり、1782年モーツァルトの「後宮からの誘拐」の劇中で流れるイェニチェリの曲はシンバルが特徴的な楽曲であった。その12年後には、ハイドンがシンバルを使った交響曲 「軍隊」を発表。


ベルリオーズとワーグナー

1800

19世紀後期、作曲家ベルリオーズやワーグナーは自らの作品にシンバルを多用し始め、シンバルはジルジャンのみを使用するように要求した。このようにシンバルはオーケストラに不可欠な存在となった。


ケロップ・ジルジャン

1865

1865年アベディスⅡ世が亡くなった際、彼の息子はまだ若すぎたため、彼の弟のケロップが跡を継いだ。ケロップはアベディスⅡ世同様、ヨーロッパ各地、アメリカの見本市において数々の栄誉を受賞。


オスマン皇帝、アブデュルアズィズ

1868

その後度重なる火災に見舞われ、経済的な窮地に立たされていたジルジャン一家に、事業基盤をパリに移すという非常に魅力的な提案があったものの、彼等は祖国を離れなかった。「世界で唯一無二のクオリティを持つシンバルを造り出せるジルジャン一家を救うために、出来ることは全てする」とオスマン皇帝、アブデュルアズィズに言わしめた。


ハルーチュンの家族(既にアメリカで生活していたアベディスIII世は写っていない。)

1909

1909年、ケロップが亡くなる際、シンバル作りの秘伝をアベディス家の正当な継承者である長男、ハルーチュンに譲ろうとしたが、本人は法律・政治の道に進む事を選択。その結果、秘伝はハルーチュンの弟、アラムが継承することとなる。


アラム・ジルジャン

1910

アラムは政変の最中、コンスタンティノープルにおいてシンバルを作り続けることが困難と判断。アルメニア全国民運動に参加した後、一時ブカレストに避難することを余儀なくされる。そこで彼は2番目のジルジャン工場を設立した。その後祖国に戻ったアラムは、世界中にシンバルを輸出。その主な輸出先は、今日最大の楽器消費国、アメリカであった。


アメリカの地で初となるシンバル工場

1927

1927年、アラムは甥のアベディスⅢ世に手紙を書き、彼がファミリー・ビジネスを引き継ぐように要請する。アメリカでキャンディー工場を成功させていたアベディスは、正統な継承者の中で唯一の男性であった。アベディスはトルコには戻らず、アメリカの地でファミリー・ビジネスを受け継ぐことに同意した。


アベディスⅢ世

1929

アラムは、アメリカ初のジルジャン工場の立上げに協力し、1929年マサチューセッツ州クインシーに最初のジルジャン工場を設立。ジャズの時代が始まろうとしていた。


アベディスとジーン・クルーパ

1930

アベディスはジーン・クルーパと終生の関係を育み、クルーパは従来より薄いシンバルを製造するようアベディスに助言。マーチング用シンバルをドラムセット用の全く新しいシンバルに生まれ変わらせた。


チック・ウェブとアベディス、パパ・ジョー・ジョーンズ

1936

またアベディスは、ジャズの世界を牽引する才能豊かなアフリカ系アメリカ人ミュージシャン達とも積極的に交流した。トルコでの幼少期、アルメニア人である事を理由に自身も差別を受けた経験を持つアベディスは、ジルジャン社においては差別という言葉は存在しないと宣言していた。彼はチック・ウェブ、パパ・ジョー・ジョーンズ(ハイハットの開発に大きな影響を与えた)らに多くのアイディアをもらった。この時期に「ペーパー・シン・クラッシュ」「ライド」「スプラッシュ」「ハイ・ハット」「シズル」といったシンバルが誕生し、アベディスがそれらの命名も全て行った。


アーマンド・ジルジャン

1935

アベディスは14歳の息子アーマンドに独自のシンバル製造のノウハウを伝授し、彼もファミリー・ビジネスを少しずつ学んでいった。


アーマンドとアベディス

1940

1941年、第二次世界大戦勃発後、軍需生産委員会により供給が制限されるようになっても、アベディスはアメリカ及びイギリスの軍楽隊からのオーダーに充分に応えられる銅とスズの配給を受けることができた。そのお陰で、ジルジャン社の熟練した金属加工職人がわずか3人になってしまっても、厳しい戦時下にもかかわらずシンバル製造を続けることができた。


マサチューセッツ州クインシーにいるアーマンド

1945

また第二次世界大戦は、秘伝のシンバル製造方法がただの一度だけ記録に書き残された時でもあった。アベディスは息子が戦地から戻ってこれない場合に備え、原料の配分、製造方法などを会社の金庫と自宅に保管した。1945年、ジルジャン家で最も音楽の才能に優れたアーマンドが戦地から帰還。製造側の責任者として本格的にビジネスに加わるようになる。彼は今までにないサウンドを求め、新たな手法を試すことを長年楽しみにしていた。


シェリー・マンとアーマンドとアベディス

1950

1950年までには従業員も15人増員し、年間のシンバル製造数も70,000枚可能となった。戦後の経済成長とモダンジャズ人気の高まりに後押しされ、益々ビジネスも成長していった。


アーマンドとマックス・ローチ

1954

父アベディスの指導の下、アーマンドは「アーティスト・リレーションの父」として当時のトップ・ドラマー達(Gene Krupa, Buddy Rich, Max Roach, Shelly Manne, Elvin Jones and Tony Williams)との親交を深め、ドラマーと一緒になってニュー・サウンドの探究を押し進める。


ハロルド・‘トミー・トンプソン(ボストン交響楽団)とジョー・モレロとアーマンド

1950

トップ・ドラマー達のために自らシンバルを選ぶうちに、アーマンドはドラマー達が何を求めているのか正確に読み取る力を得ていった。ドラマー達の要求や、音楽業界の変化に絶妙にマッチするシンバルのサウンドを見事に再現できるようになった。


ルイ・ベルソン

1963

ルイ・ベルソンに鼓舞されつつ、ジルジャンは「ニュー・ビート・ハイ・ハット」を発表する。トップをより軽めのシンバルに、そしてボトムをより重めのシンバルにするこのマッチングは鮮明な「Chick」サウンドを強調することに成功。ニュー・ビートは瞬く間に全てのドラマーのスタンダード・ハイ・ハットとなる。


The Beatles

1964

ビートルズがエド・サリヴァン・ショーに出演し、ジルジャン・シンバルの需要が一挙に高まる。この年の終わりには90,000枚のバックオーダーを記録する。


マサチューセッツ州ノーウェルの工場とドラマーズラウンジ

1973

ジルジャンはこの年マサチューセッツ州のノーウェルに、最先端のシンバル製作を追求するための新工場を開設、と同時にジルジャン創設350周年を祝うことになる。同工場はその後3度も拡張が加えられた(1981年、1998年と2007年)。


クレイギー・ジルジャン

1976

アベディスはこれまでの伝統を覆し、孫娘のクレーギー・ジルジャンを経営陣に迎え入れた。それから3年間、ジルジャン家の3世代が共にビジネスを行うこととなった。


アーマンド・ジルジャン

1977

1977年、アベディスはアーマンドを会社の社長に任命。アーマンドは会長に就き、シンバル製作に関するレベルをさらに押し上げるために、数百万ドルを投資して工場の近代化を図るとともに、研究開発を専門に行う‘Sound Lab’を立ち上げた。


アベディス・ジルジャン

1979

アベディスが90歳で死去し、アーマンドが会長となった。


1980

1980年代初頭アーマンドは、ロータリー、ダブルローリング、コンピューター制御のランダムハンマリングなど製造機械類へ再び多額な設備投資を行い、彼が求めていた新たなサウンドを生み出すことが可能になった。


エルヴィン・ジョーンズとアーマンド

1981

ジャズドラマー、エルヴィン・ジョーンズの助言を得て、ジルジャンは手作りによるあの伝説的なKジルジャンの再生産に踏み切る。


第1回 ジルジャン・デイ

1986

アーマンドの息子、ラブ・ジルジャンがロス・アンジェルスにアーティストとの連絡事務所を開設、また「ジルジャン・デイ」という1日ドラム・クリニックをスタートさせる。以来、このクリニックは音楽業界ではスタンダードとなっている。この年ジルジャンはK/Zコンビネイションのハイ・ハットを世に送りだす。あるシリーズのトップと、それとは異なるシリーズのボトムを組み合わせた最初のハイ・ハットである。


アラバマ州のジルジャンドラムスティック工場

1988

ヒッコリーの生産地であるアラバマ州に、完壁に統合されたドラムスティック生産工場を設立する。このジルジャンのドラムスティックはすぐにトップ・ドラマーの目にとまり、使われ始める。使用しているドラマーにはルイ・ベルソン、ヴィニー・カリウタ(スティング)、デニス・チェンバース(サンタナ)、ジョーイ・クレイマー(エアロスミス)、トラヴィス・バーカー(ブリンク182)らがいる。


ヴィニー・カリウタ

1990

ジルジャンはヴィニー・カリウタの協力を得て、ブリリアントフィニッシュでサウンドクオリティ、ビジュアル共に優れたモデル、Aカスタムを開発。Aカスタム・セットはモダン・シンバルにおいて、その抜けの良いシャープなサウンド・クオリティの代名詞となっている。


最新のオーケストラルームでシンバルを合わせるビル・プラット(シンシナティ・シンフォニー・オーケストラ)

1995

1995年、ジルジャン社はオーケストラ奏者が数あるシンバルから試奏しマッチングが行える特別な部屋を用意。そこには、まずボストン交響楽団、ロンドン交響楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団といった錚々たるメンバーが訪れた。


ISO QCチームとデビー、クレイギーそしてアーマンド。

1996

ジルジャン社は、パーカッションカンパニーとして世界で初めてISO 9001を取得。(ISO 9001は、厳しい審査基準をクリアした組織のみが取得可能な世界的に認められた品質マネジメントシステムの規格)


クレイギー、アーマンド、デビー

1999

アーマンド・ジルジャンは長女クレイギーを会社のCEOに任命する。同社の歴史上、女性がこの地位についたのは初めてのことである。また、次女デビーは、人事担当副社長となる。


オーケストラルームにてアーマンドと妻アンディ。

2002

Kコンスタンチノープルの開発がアーマンドの最後のプロジェクトとなった。彼はまずオーケストラ用の開発から取り掛かったが、オーケストラ用モデルは優れたライドシンバルにもなった。皆から愛された会長アーマンド・ジルジャンが、12月26日アリゾナ州スコッツデイルの自宅で死去。享年81歳。


リンゴ・スターとキャディー &エミリー。サマンサとトラビス・バーカー。

2004

ジルジャン家の15代目、キャディーとエミリー(デビーの娘)、そしてサマンサ(クレーギーの娘)もこれまでの家族の伝統に倣い、ジルジャン社のメンバーとなった。


神保 彰

2006

神保彰プロデュースKカスタムハイブリッドシリーズをリリース。レイジングのパターンにより、ドラマーがシンバルのどこを叩くか、その場所を変えることで、音楽的な明るさ、暗さ、そのコンビネーションと様々な音色を奏でることが可能に


クレイギー・ジルジャンとビック・ファース

2010

ジルジャンは世界一のドラムスティックメーカーVic Firthとの合併を発表した。


Craigie and Debbie Zildjian with Mike Balter

2018

ジルジャンがパーカッション・マレットの大手メーカー、Mike Balter Malletsを買収。ドラムスティックとマレットのビジネス拡大に対応するため、メイン州ニューポートに新しい製造施設を購入。


2023

ジルジャンは創業400周年を迎え、音楽を通じて人々の表現力を刺激する音を創造してきた伝統を受け継いでいます。



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